御座を語る人たちシリーズ(中村精弐)


鵜方の郷土史家

 『志摩の地名の話』を昭和26年、伊勢志摩国立公園協会より出版


中村精武著『志摩の地名の話』の「神社の経営」より抜粋

 崎島半島の突端形勝の地に御座がある。この地名は何かよしありげな響を持っている。この地名の不動は御座の不動か不動の御座かというほど御座の名を有名にした。本尊は弘法大師爪切不動と伝えられ、境内幽邃閑寂まことに近隣の名刹たるに恥じぬ。
 御座はもと胡佐ノ庄と称したというが、それはただ神宮雑例集だけの記載のようである。あるいは胡佐は名錐の波切に於けるが如き一時的な表現に過ぎなく、やはり御座少なくとも座がこの地名の動かしがたい根幹であると思われる。鈴木敏雄先生の御座村考古誌考(昭和八年)に「石器時代遺跡ニツキテハ英虜湾内ノ諸遺跡ニ比較スレバ論ズル迄モナキ貧弱サヲ感ズベシ、叉古墳一時代ニ降リテモサシテ繁栄ノ地タリシヲ感ゼシメズ」とある。つまり此地は浜島と先志摩との交通上の要点たることを除いては、不動によって興ったとしても大過ないのではないか。とすると神佛に関連する座という語がクローズアップされて来る。それ以前の地名があってもなくても、御座という地名は不動によって開幕されたと考えたいのである。
 伝説によると上古やんごとなき御方の御座所になったためこの地名が生れたといわれ、その主格は神武天皇といい神功皇后といい持続天皇といい、はては源頼朝まで飛び出してくる始末だが、それは私の論ずる限りではない。
 頭屋(志摩では祷屋と書ぃた例が多い)制度はわれわれの志摩でもいろいろな形で残っているが、立神の例を挙げよう。立神には九座というのがある。村の長老九人で寺社その他古い伝統のマッリゴト一切を処理するが、その九人役を選び出す組割を座と称し九座となる。
 御座の不動の祭事一切を管掌する役が五人あって、これを選び出す組割を立神の例のように五座と称したか、或は五人役の祭場に於ける座席から五大役そのものを五座と称した。これがゴザの地名の由来であるとするのが最も簡明な考え方である。座は神社の祭神の柱数から神社に附属する猿楽田楽の座まで頗る用途が廣いが、とにかく御座はいすれかの意味の五座であろう。
 更に好奇の触手をのばせば不動に関係した商人の座があったと考えられぬこともない。最も初期の商人は行商であろうが、彼等が祭日縁日に寺社此の境内の一隅をかりて素朴な商品をひさいだ。しかも之等商人は寺社の保護を受け営業の排他独占という特権を与えられたが、寺社は彼等から貢銭を徴してその収入の増大を図った。これが座の起原で、平安朝末期から鎌倉期に起った。鎌倉の材木座がその名残をとどめた地名で、東京の銀座はもちろん江戸時代の跡である。
 われわれの御座は交通の要衝でしかも霊地であったから、古来旅人の往来はかなり頻繁であったと見られ、旅守御針の祀られていることもこれを裏書している。伊雑官の御田植祭や国分寺のアンゴ市等を廻っている商人が不動の縁日にあの小高い櫻の並木の下(この区域はずっと後世の修築ではあろうが)などで粗朴な玩具・干魚・ワカメ・トコロテンなどの海産物、さては鎌や鍬先などの軽農具等をひさいだことは昔も今とあまり変らなかったかと思われる。縁日祭日は寺社の収入増加を図る一つの企画であることは勿論で、その裏面には特権の座が強力に之を支持していたものであろう。この座つまり株がわれわれの御座には五座あったのではないか。そしてそれが地名となったのではなかろうか。勿論御座に組織的な経済組織があったということは明確にはわからない。しかし松阪では蒲生氏郷が楽市の制を布いたという記録がある。座はそう遠い問題ではなかった。さし当ってこうと断定する立証に欠けるだけである。

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